ソメイヨシノ ( 続き )


[ 5 : 染井村の歴史 ]

米軍機による空襲の被害を避けるため、私は太平洋戦争 敗戦の丁度 1 年前の昭和 19 年 ( 1944 年 ) 8 月に、東京から長野県の山中の寺に 学童集団疎開 をしましたが、それまでは、前述した 豊島区 ・ 巣鴨 ( 旧 ) 5 丁目に住んでいました。

染井の墓地

この辺りは江戸時代には武蔵国 ・ 北豊島郡 ( きたとしまごおり ) 巣鴨 ( すがも ) 村といいましたが、隣には ソメイヨシノ の 発祥の地 とされる 染井村 ( そめいむら ) がありました。

染井村の概略位置は 現 ・ 豊島区にある J R 山手線の 巣鴨駅付近から 駒込駅にかけての線路の西側 ( 図の左側 ) にありました。

染井吉野桜発祥の里記念碑

J R 巣鴨駅前にある白山 ( はくさん ) 通りを渡った線路のすぐ西側には 染井吉野の碑 がありますが、J R 駒込駅のすぐ北西側にも 染井吉野桜記念公園 があり、そこには 染井吉野桜 発祥之里 駒込 と書かれた記念碑があります。

( 5−1、名前の由来 )

この村には古くから 染井稲荷 ( 神社 ) があり、現在も区立 駒込小学校の近くにありますが、天保年間 ( 1830〜1844 年 ) に刊行された江戸名所図会 ( ずえ ) によれば、

染井稲荷は往古 ( おうこ、大昔 ) よりの鎮座にして、染井 一村の鎮守なり。昔 此所 ( ここ ) に 染井と名づくる泉 ありしが、今は水涸 ( か ) れて其の跡を失う。 村を染井というはこの泉による とぞ。

とあり、染井村の名前は、むかし村にあった染井という泉に由来しました。最初に述べた スコットランド 出身の園芸家 ・ 兼 植物採集家の ロバート ・ フォーチュン は、染井村の様子について、

巣鴨植木屋

交互に樹々や庭、格好良く刈り込んだ生垣が続いている。村全体が多くの 苗木園 で網羅 ( もうら、網は魚を取る網、羅は鳥を取る網から、残らず取り入れること ) され、直線道が 1 マイル ( 約 1.6 キロメートル ) 以上も続いている。世界のどこにもない景観だ

と 「 幕末日本探訪記 」 の中で述べていました。 右の絵図は、染井村の植木屋の様子ですが、当時の染井村や隣接する巣鴨村は江戸時代初期に幕府が定めた 五街道の 一つである中山道 ( なかせんどう ) や、 徳川将軍が日光東照宮へ参詣する際に通る日光御成 ( おなり ) 街道に面していて、植木職人が大勢住み、植木の栽培が盛んで 造園なども営んでいました。

西巣鴨3丁目交差点

なお染井村の 一角にあり後述する 染井の墓地 ( 染井霊園 ) は、空襲で焼ける以前の私の家から、当時都電 ( 路面電車 ) が運行していた白山 ( はくさん ) 通りを越えたところにありました。左の写真は白山通りにある西巣鴨 3 丁目交差点ですが、これと交差するのは東京で今も唯一残る都電 ・ 荒川線 ( 早稲田 −− 三ノ輪橋間 ) です。

線路際の桜墓地の桜

染井の墓地には ソメイヨシノ の地元らしく 多数の桜の樹木があったので、春になると桜がきれいでした。写真の右側は巣鴨駅前から山手線の線路沿いに南 ( JR大塚方向 ) に向かう桜並木です。

( 5−2、大名の下屋敷と、染井の墓地 )

江戸時代の 染井村には播磨国 ( はりま、現 ・ 兵庫県南部 ) ・ 林田 藩主 禄高 1 万石の 建部家 ( たてべけ ) と、伊勢国 ( 現 ・ 三重県 ) ・ 津 藩主 禄高 32 万石の 藤堂家 ( とうどうけ ) という 二つの大名の広い下屋敷 ( しもやしき ) がありました。

下屋敷 とは大名が江戸の郊外に建てた別荘のことですが、当時の江戸では 2 〜 3 年に 1 度の割で大火があり、その際に江戸在勤中の殿様が住む上屋敷 ( かみやしき ) や、隠居した先代藩主、跡取りが住む 中屋敷などに類焼の危険が及ぶ際には、避難用の屋敷としても使用しました。 ちなみに江戸時代で最も大きな火事は、明暦 3 年 ( 1657 年 ) に起きた 明暦の大火 ( 別名 振り袖火事 ) ですが、その被害は大名屋敷 500、旗本屋敷 770、寺社 350、町家 400 町が焼失し、 焼死者は 107,000 人 にのぼりました。

ところで明治維新以後、発足したばかりの明治新政府にとって最初の課題は、 徳川幕府が欧米諸国と結んだ 不平等条約 を改正することでした。そこで政府は岩倉具視 ( いわくら ともみ ) 特命全権大使一行を明治 4 年 ( 1871 年 ) に、欧米各国に派遣し予備交渉に当たらせましたが、その際に諸外国から日本が切支丹 ( きりしたん、キリスト教 ) の布教や 信仰を禁止していることを一様に非難されました。

高札

そこで政府は不平等条約の 改正交渉上の障害を取り除くために、明治 6 年 ( 1873 年 ) に これまでの キリスト 教 禁止の政策を改めると共に、禁制を記した高札 ( こうさつ、注参照 ) を全国から撤去しました。

注:)
高札とは、法度 ( はっと ) ・ 掟書 ( おきてがき ) などを記し、人通りの多い所に高く掲げた札のことで、「 たかふだ 」 ともいう。

昔から墓地といえば ほとんど寺院の周辺にあり、寺院が墓地を所有 ・ 管理していました。 しかし キリスト 教が解禁となり、神仏分離令の公布 に伴い、 外国人、キリスト 教徒、神道の信者を埋葬するための墓地を設置する必要に迫られたために、 染井村にあった大名の下屋敷が廃藩置県後は空き家となったので、政府がその広い敷地跡に墓地を開設しましたが、明治 7 年 ( 1874 年 ) のことでした。 染井村の地名からその名を、 染井 ( そめい ) の墓地 と呼びました。

染井村のその後については武蔵国から東京府となり、周辺地域の都市化が進むにつれて染井村の植木産業は土地の宅地転用がおこなわれて衰退し、 明治の末期には姿を消しましたが、その当時から 日本における 三大植木の産地 と言われたのは、福岡県久留米市にある 田主丸 ( たぬしまる )、 兵庫県宝塚市にある 山本 ( 旧 長尾山村 ・ 山本 )、 埼玉県川口市の 安行 ( あんぎょう )、の 三ケ所です。

東京近郊では現在 サクラの苗木の約 8 割 は、江戸時代から植木の商売が盛んで奥州街道 ( 現 ・ 国道 4 号線 ) の西側にある、前述の川口市 ・ 安行 ( あんぎょう ) から出荷されています。

( 5−3、サクラ の苗木の供給可能調査 )

植木や花卉 ( かき、注参照 ) などは生産農家と購入業者 ( 植木屋 ・ 花屋 ) が、 マーケット ( 流通市場 ) を通さずに直接取引をすることが少なくないので、実際に流通 ・ 売買した サクラ の苗木の量については不明です。

注:)
花卉 ( かき ) の 卉 ( き ) とは草の意味であり、花卉とは花の咲く草花や観賞用に栽培する植物のことです。

サクラ の年間取引量を知るうえで最も近い データと言われているのが、日本植木協会が毎年まとめている各種植木の 「 供給可能量 」 ですが、その平成 21 年度 ・ 埼玉県の供給可能量 から サクラ を抜き出してみますと、下表のとおりになります。


順 位種 類供給可能な木 ( 本 )
ソメイヨシノ49,930
ヤエザクラを含む

サトザクラ

6,535
オオヤマザクラ3,530
シダレザクラ2,721
カンヒザクラ2,600
オオシマザクラ2,420

( 平成21年度・日本植木協会 ・ 供給可能調査、全国詳細から引用 )


上記の表から供給可能な サクラ の苗木のうち 74 パーセント が ソメイヨシノ であることが分かりますが、各地の公園や並木通りの サクラ は、 100 パーセント近くが ソメイヨシノ であるといわれています。


[ 6 : ソメイヨシノ の命名 ]

染井村の植木屋 ・ 伊藤家は、江戸幕府開設の頃から染井村で樹木の植栽と造園を家業としていましたが、当主は代々伊兵衛と名乗り藤堂藩御用達の植木屋でもありました。幕末に家業を継いだ何代目かの伊兵衛は、あるとき 桜の新品種 を開発しましたが、これを吉野山から入手した桜であると称して 吉野桜 と名付けて売り出しました。

すると吉野山に行ったことのない江戸の人々は 吉野桜 ( 後の ソメイヨシノ ) の花に魅せられましたが、武蔵国 ・ 南足立郡 ・ 沼田村 [ 現 ・ 東京都 ・ 足立区 ・ 江北 ( こうほく ) ] 出身で、サクラ 研究家の船津静作 ( 1858〜没年不明 ) が残した記録によれば、

当時交通の開けざれば 吉野の花の美 のみを聞いて、未だ其春 ( そのはる、桜が満開の吉野山の美しさ ) を知らざる江戸の人士は此の花の妙な色香に眩惑 ( げんわく ) し、 吉野桜 は此の如く美なるものかと、我も人も此の者 ( 植木屋 ) の 猾手段 ( かつしゅだん、悪がしこい方法 ) に乗ぜらるるを知らず、争って此の品種を購 ( あがな ) い、−−−( 以下省略 )

とあるように、 吉野桜の ネーミング に大勢の人がまんまと乗せられて吉野桜を購入しました。

ところで開発された吉野桜に ソメイヨシノ と命名したのは、以前若狭 ( 福井県 ) の 旧制 ・ 小浜 ( おばま ) 中学校で博物学を教えていた教師の 藤野寄命 ( ふじの よりなが、1848〜1926 年 ) でしたが、その経緯について彼は明治 13 年 ( 1880 年 ) に現在の国立科学博物館の前身である文部省博物局に転職し、明治 18 年 ( 1885 年 ) から 19 年にかけて上野公園の桜の調査に当たりました。

その際に、最近植えたと思われる桜の木に分類学上 新種の サクラ を発見したので、小島という園丁の男に木の来歴を尋ねると、彼は、

多くの サクラの木は 染井辺 ( あた ) り から来る、という返事でしたので、分類学上 ヤマザクラ 群に属するこれまでの吉野桜と、開発された新種の吉野桜を区別するために、仮に ソメイヨシノ と名付けた。

と調査報告書に記しましたが、ソメイヨシノ の 「 ソメイ 」 とは前述した豊島区 ・ 駒込 にあった旧 ・ 染井村の 「 ソメイ 」 であり、ヨシノ とは言うまでもなく奈良県にある吉野山の 「 ヨシノ 」 からとったものでした。ソメイヨシノ が学術的に認められたのは藤野の発見から 10 年以上経った、明治 33 年 ( 1900 年 ) の日本園芸会雑誌でした。今でこそ全国の サクラ の約 8 割は ソメイヨシノ といわれていますが、この品種が開発されてからの歴史は、せいぜい 150 年 程度 しか経っていませんでした


[ 7 : クローンで広まった ソメイヨシノ ]

植物の細胞は一般の動物の細胞とは異なり、成長細胞が最初から花、茎、根になるように分かれているのではなく、植物のどの部分でも生育環境 ・ 条件に応じて、たとえば土に 「 挿し芽、挿し木 」 をした場合、地中の先端部になればそこから根を発芽させ、茎の先端部になれば、そこから生殖器官になる 「 花 」 を咲かせる性質があります。

ソメイヨシノ は前述した染井村の植木屋 ・ 伊藤伊兵衛が苦心して作り、育てあげた 僅か 1 本の ソメイヨシノ の原木 ( 親木 ) から全国に広まりました

その方法とは植物の 一部分さえあれば 、種子が無くても植物を増やす方法であり、これを 栄養繁殖 ・ 無性生殖、 最近流行の用語では クローン ( Clone、注参照 ) といい、受精により増やす方法を 種子繁殖 ・ 有性生殖 といいます。

注:) クローンとは、
1 個の細胞あるいは個体から、無性生殖によって生じる 生物学的 ( 遺伝学的 ) に同一の形質を持つ 個体群 あるいは細胞群のことです。

植物を増やす具体的な方法としては、次の 3 種類があります。

  1. 実生 ( みしょう ) : 種子を発芽させて育てる方法ですが、受精により親と形質の異なるものが生まれるので、特定品種の繁殖には使えない。主に新品種の育成や、接ぎ木に使用する台木 ( だいぎ ) の苗作りに用いる。さらに花を咲かせ実を付けるまでに時間がかかる ( たとえば、桃 ・ 栗 3 年、柿 8 年 )。

  2. 挿 ( さ ) し木 : 茎や枝を切り取って、それを土に挿して根付かせる 栄養繁殖法 であり、手軽で大量に増やせるが、 挿し木では根付かない品種が多い 。ソメイヨシノ もその 一つ。

    木接太夫の碑

  3. 接 ( つ ) ぎ木 : 安土桃山時代 ( あづち ももやまじだい、1573〜1603 年 ) に園芸史上画期的な接ぎ木という 新技術を、摂津国 ・ 川辺郡 ・ 長尾村 ( 現 ・ 兵庫県宝塚市 ・ 山本 ) の坂上善太夫が開発しましたが、彼は豊臣秀吉から木接太夫 ( きつぎ たゆう ) の称号を貰いました。

    碑はその彰徳碑 ( しょうとくひ、人の善行を世間に広く知らせる碑 ) ですが、植木業の中心である宝塚市 ・ 山本にある阪急電鉄 山本駅 ・ 北口から西へ 50 メートルの所にあります。

    接ぎ木とは根の付いた台木 ( だいぎ、親となる木 ) に他の木からとった枝や芽の付いただけの 接ぎ穂 ( 穂木ともいう ) を接ぐ方法ですが、同じ サクラ同士でも、種類によっては相性 ( 親和性 ) が良い悪いの問題があります。

( 7−1、接ぎ木に関する クイズ )

接ぎ木

接ぎ木について理解するために簡単な クイズ を出しますので、図を見ながらお答え下さい。 渋柿 の台木 ( 親木 ) に 甘柿 の接ぎ穂 ( 穂木 ) を接いだ場合には、成長したその木から、

  1. 親が渋柿だから、その実は当然 渋柿が成る。

  2. 親が渋柿でも接ぎ穂 ( 穂木 ) が甘柿なので、甘柿の実が成るのが常識。

  3. ある枝には渋柿の実だけが成り、別の枝には甘柿の実だけが成るが、その割合は 「 種の保存 」 という自然の摂理から、それぞれ約半数ずつになる。

正解は次の項目の終わりにあります。


[ 8 : 桜の自家不和合性 ( じか ふわごうせい ) ]

前項で皆さんにとって知りたくもない植物の増やし方などわざわざ説明したのは、桜には 自家不和合性 ( じか ふわごうせい ) という性質があるからでした。

注:)
それは 同じ桜の木の 「 おしべ 」 と 「 めしべ 」 との間では受精しない性質があることで、たとえ自家受粉が行われても花粉の不発芽、花粉管の伸張阻害などにより、 受精が妨げられる現象 をいいます。

それは 同じ遺伝子同士の結合を避ける という、 自然界の摂理 からでした。

さらに ソメイヨシノでは同じ木からの自家受精ができないだけでなく、 他の桜の木から採った花粉を使用した場合でも、 一つも結実しなかった とする実験結果を、昭和 42 年 ( 1967 年 ) に京大の渡辺光太郎が学術雑誌に報告していました。つまり昔から ソメイヨシノ を増やすには、 接ぎ木で増殖する 以外には方法が無かったことが分かりました。

一般に園芸品種は接ぎ木で増殖させますが、ソメイヨシノ の場合には、台木 ( 親木 ) として、オオシマザクラ か、マザクラ を使い、それに ソメイヨシノ の枝を接ぎ木します。ところで前項 ( 7−1 ) の クイズ の正解は 「 2 」 でした。


[ 9 : ソメイヨシノ の寿命 ]

日本の桜のうちで ソメイヨシノ の占める割合は 約 80 パーセント といわれていますが、その寿命については 一般に 60 年 といわれています。

弘前城桜

現存する 最古の ソメイヨシノ は青森県弘前市の弘前公園にある サクラ といわれていて、明治 15 年 ( 1882 年 ) に植えられたとされるので、最も古い桜は今年で 樹齢 128 年になります 。しかし ソメイヨシノ は一般に寿命が短いだけでなく、天狗巣病 ( てんぐすびょう )などの病気に冒され易く虫害にも弱いという欠点があります。

その理由については ソメイヨシノ が僅か 1 本の原木 ( 親木 ) から接ぎ木 ( クローン ) により繁殖し、何代も何代も代を重ねて現在に至っているので、染井の植木屋伊藤伊兵衛が最初に育てた種子からすれば 150 年ほど経過したことになります。

( 9−1、農作物の連作障害 )

ところで 校庭や公園にある ソメイヨシノ の老木が枯死した場合には、その跡に再度 ソメイヨシノ を植樹するのは 考えものです。そこには ある種の農作物と同様に 連作障害 ( 注参照 ) と似た現象が起きるからで、 生育不良 ・ 病虫害などいろいろな問題がおきます。

注 : ) 連作障害
連作とは畑地に毎年続けて同じ作物を作ることですが、ある種の農作物、たとえば ナス 科の植物 ( ジャガイモ、トマト、ナス ) などを連作すると作物の生育が悪くなり、収量が減少することが農民たちの間で昔からよく知られていて、これを連作障害といいます。

ナス科だけに限らず、農水省の調査では 陸稲、ビールムギ、大豆、キュウリ、ダイコン などなど 65 種類に程度の差があるものの連作障害が現れます。

連作障害のことを 忌地 ・ 厭地 ( 読み方は、いやち ) ともいいますが、 もとは連作障害が発生した土地を 忌地 ( いやち ) と呼んだことが始まりでした。

ソメイヨシノ など樹木に対する 忌地 ( いやち、連作障害 ) については、その原因として

  1. 土壌中にその植物を好む病原菌や線虫 ・ 害虫が発生する。

  2. 植物の生育に必要なものには、 三大栄養素 [ 窒素 (N) ・ リン酸 (P) ・ カリウム (K) ] に加え、 三大微量要素 [ マグネシウム ( Mg ) ・ カルシウム ( Ca ) ・ 炭素 ( C ) ] がありますが、特定の植物が長年生育した結果、その土壌から生育に必要な 特定の栄養素や微量要素 が失われる。

  3. 土壌中に残る枯死した木の根が腐敗分解する際に、 根の発育を阻害する物質 を生成し、植樹された新しい木の根の働きを低下させ、生長に障害を与える。

というものでした。上記の原因が単独ではなく、種々の原因が複雑に影響し合って忌地 ( いやち ) を形成するとされます。その結果、かつては ソメイヨシノ の名所として知られた所でも、2 度 3 度と ソメイヨシノ を植樹してみたものの、元気の良い サクラ が育たない所もありますが、それに対する対策の一つには、 土壌の入れ替えがあります



[ 10 : ワシントン DC ・ ポトマック 河畔の桜 ]

シドモア女史

ワシントン DC を流れる ポトマック 川沿いの公園には日本から送られた桜並木があり、満開の季節には サクラ 祭り ( National Cherry blossom Festival ) が催されますが、桜を送るきっかけとなったのは、女性 ジャーナリスト の エリザ ・ シドモア ( Eliza Scidmore、1856〜1928 年 ) の尽力によるものでした。

エリザ は前後 3 回訪日し、3 年間滞在する間に人力車で各地を旅行しその経験を旅行記の 日本 ・ 人力車旅情 ( Jinrikisya Days in Japan ) に書きましたが、知り合いでした第 27 代 大統領の夫人 ヘレン ・ タフト ( Helen Taft ) に、東京の向島で見た 桜の美しさを語りました。

荒川堤、桜

ヘレン 自身も夫の ウイリアム ・ タフト が アメリカ の植民地 ( 1898〜1946 年 ) でした フィリピン の初代知事を、1901 年から 1904 年まで務めたことから、その間に家族とともに日本を訪れました。その際に当時東京の花見の名所でした荒川 ( 現 ・ 隅田川の上流 ) の堤に咲く五色桜 ( 注参照 ) を見て、その優雅さに心を奪われたと言われています。写真は当時の彩色写真。

注:)
荒川堤の桜は明治 19 年 (1886 年 ) に、開花の時期が最も早い カンヒザクラ ( 寒緋桜 ) から、最も遅く咲く八重の里桜まで、花の期間が長く楽しめる 78 種 3,225 本を長さ 5.8 キロの荒川の堤に植えたことが始まりで、明治 ・ 大正 ・ 昭和初期まで花見のために、荒川 には多くの乗合船が出たりして花見客で賑わいました。

五色桜の名称は、当時の新聞に 「 五色に彩られ 」 と記事が紹介されたことにはじまるといわれています。また後述する ワシントン DC に送られた桜の苗木は、ここの桜から接ぎ穂 ( 穂木 ) が採取されて育てられました。

尾崎行雄東京市長

ポトマック 河畔の新公園に日本の桜を植えて両国の親善に役立てることになり、タフト 大統領 ( 任期 1909〜1913 年 ) からの依頼が小村寿太郎外務大臣にもたらされました。外務省から東京市 ( 当時 ) の尾崎行雄市長 ( 1903〜1912 年まで在任、写真 ) に桜を寄贈の要請があり、尾崎市長は前述した東京府 ・ 南足立郡 ・ 江北 ( こうほく ) 村の荒川 ( 隅田川の上流 ) の堤に繁る五色桜から接ぎ穂を採取した苗木 10 種類、合計 2,000 本の桜を明治 42 年 ( 1909 年 ) に送りました。

しかし アメリカ 到着後の植物検疫で約半数の木が害虫や病菌の被害を受けていたことは判明し、全て焼却処分にされました。

尾崎東京市長はこの失敗を教訓にして、農商務省農事試験場長の古在由直 ( こざい よしなお、1864〜1934 年 ) 農学博士 ( 後に東京帝大総長 ) に害虫の付かない強い苗の生産を依頼しました。そこで病気や害虫の付く恐れの少ない苗の産地として選ばれたのが、兵庫県川辺郡 ・ 稲野村 ( いなの ) 新田中野村 ・ 字東野 ( しんでんなかのむら あざひがしの、 現 ・ 伊丹市 東野 ) でした。

そこで生育した健康な桜の台木 ( 親木 ) 10,050 本を静岡県清水市の 興津 ( おきつ ) 園芸試験場 に送りましたが、そこで素性の確かな荒川堤の江北 五色桜と呼ばれた種々の種類の桜から穂木を採取して接ぎ木をしました。農薬もほとんど無い時代に多数の苗木を病気、害虫から隔離して育てるのは大変な苦労でした。

桜見物客

明治 45 年 ( 1912 年 ) に再度 ソメイヨシノ 1,800 本を含む 12 種類の、合計 3,020 本の桜の苗木を送りましたが、結果は アメリカ 政府の植物検疫には全て合格して ワシントン に運ばれ植樹されました。

ポトマック川岸の桜

ポトマック 川の岸辺や タイダル ・ ベイスン ( Tydal basin、ポトマック 川から引き込んだ入り江 ・ 池 ) 周辺などに植えられ、その後は見事に育ち毎年春には美しい花を咲かせますが、季節に合わせて毎年桜祭りが催され、ワシントン DC の花の名所になっています。

シドモアの墓里帰り桜

ちなみに エリザ ・ シドモア は1928 年 ( 昭和 3 年 ) に移住先の スイス の ジュネーブ において 72 才で死亡しましたが、遺言により遺骨は翌年日本に運ばれ、横浜市 ・ 中区 ・ 山手町の外人墓地に葬られました。左側の写真は シドモア の墓所です。

桜が ワシントン へ送られてから 79 年後の平成 3 年 ( 1991 年 ) には、今度は ワシントン DC の ポトマック 河畔から桜の苗木が日本に里帰りしましたが、そのうちの 4 本が エリザ ・ シドモア が眠る墓の傍に植樹され、シドモア 桜と名付けられました。


since H 22,Sep. 26

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