般若心経(はんにゃしんぎょう)![]()
注:1 七世紀、唐の時代に仏法を求めてインドに赴き、シルクロードを経由して教典を中国にもたらした僧、玄奘三蔵が漢訳したものが日本では主に流布していますが、それ以外にも鳩摩羅什 ( くまらじゅう ) の訳、法月の訳など合計 七種類もあるのだそうです。
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玄奘三蔵の漢訳経とその読み方
観自在菩薩、行深般若波羅蜜多時 { かんじーざいぼーさー、ぎょうじん、はんにゃーはーらーみーたーじ }
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般若心経の意味 ( その一、直訳 )智恵 ( ちえ ) 深き般若波羅蜜多 ( はんにゃはらみった ) を行 ( ぎょう ) じられ、この世はすべて空 ( くう ) なりと、照見 ( しょうけん ) せられて一切の苦厄 ( くやく ) を度 ( ど ) されし観世音菩薩 ( かんぜおんぼさつ ) はここに説 ( と ) き給 ( たま ) う。舎利子 ( しゃりし ) よ、色 ( しき ) は空にして、空また色に異ならず、色は即ち空にして、空また即ち色ならむ。受 ( じゅ )、想 ( そう )、行 ( ぎょう )、識 ( しき ) また同じ。舎利子よ、諸法 ( しょほう ) は空にして、生じなければ滅ぶなく、垢 ( あか ) つかざれば浄 ( きよ ) くなく、増えるなければ減るもなし。空の中にはこの故に、色もなければ受も想も、行もなければ識もなし。眼 ( め ) もなく耳も鼻もなし、舌なし身なし心なし。色 ( いろ )、声、香り、味もなく、手触 ( てざわ ) りもなく思いなし。そこに働く識 ( しき ) もなし。 煩悩 ( ぼんのう ) もなく、煩悩の尽きることなく、老死なく、老死の尽きることもなく、十二支縁起 ( じゅうにしえんぎ ) ありてなし。苦、集 ( じゅう )、滅 ( めつ )、道 ( どう ) の四諦 ( したい ) なく、知ることもなく得るもなし、すべて無所得 ( むしょとく ) なる故 ( ゆえ ) に。 菩薩 ( ぼさつ ) は般若波羅蜜多に、依 ( よ ) る故 ( ゆえ ) 、心に障 ( さわ ) りなく、恐れるものもさらになし。すべての狂い迷い去り、深き涅槃 ( ねはん ) を得 ( え ) 給 ( たま ) えり。三世 ( さんぜ ) にわたる御仏 ( みほとけ ) も、般若波羅蜜多に依る故に、無上の悟りを得 ( え ) 給えり。 この故、般若波羅蜜多は、これ大 ( おお ) いなる神呪 ( しんじゅ ) なり、これ大いなる明呪 ( みょうじゅ ) なり、これぞ無上の呪 ( じゅ ) にありて、これぞ無比 ( むひ ) なる呪とぞ知る。よく一切(いっさい)の苦をのぞき、真実にして偽らず。故に般若波羅蜜多の、呪をここにこそ説(と)き給う。即ち呪をば説きて曰(い)う。 彼 ( か ) の岸へ、彼の岸へ行かむ、御仏 ( みほとけ ) の智恵の悟りの岸に幸あれ。
般若心経の意味 ( その二、意訳 )仏とは彼岸の智慧を得た者をいう。彼岸の道に向かって深く行じていくと、因果の原因は本来無いものと心の眼で捉えられる。そうなると、一切の苦しみと災難から超えることになる。舎利子よ、一切は自分があるようで無い。すべては 一つなのだ。それゆえ、舎利子よ、この世のさまざまな因果の法則は、生じることもなければ滅することもない。垢もたまらなければ浄 ( きよ ) まることもない。増えもしなければ減りもしない。それゆえ、空 ( くう ) の中に色 ( 形、存在 ) があるというのではなく、二つは 一つなのだ。 また差別、境界、肉体にまつわる様々な自我の思いは本当は無いものだ。無いから、迷いも、迷いの尽きることも、老死も、苦悩もない。いわんや小賢 ( こざか ) しい知もない。肉体にまつわる自我を去ると、このように見え、わかってくる。菩薩行 ( ぎょう ) の末に彼岸に着くと、神仏の智慧が与えられ、ものの真相が明らかになる。 般若の智慧を得ると、心に囚 ( とら ) われがなくなり、恐怖の心も湧かなくなってくる。物事を逆さまに見ていたことから遠く離れるので、行き着く先は神仏の世界しかないからである。 諸々の仏といわれる者は、一人も漏れなく大いなる神からいのちの果実を与えられ、大安心を得た。ゆえに知ることだ。彼岸への道は、これ大いなる神への祈りであり、一切の智慧の教えであり、これにくらべる道はない。 能 ( よ ) く 一切の苦を除いてくれる。真実にして偽りのないものだ。ゆえに、この説を指して不変の教えという。教えを要約するとこうなる。 あなたも、わたしも、神仏を信じて 一心をそれに託し、努め励んでゆくならば、安心の境涯に達することができる。永遠に変わらぬ心の教え。 |